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芥川の恋文 その2 [本]

ピカソは晩年になって「やっと子供のような絵が描けるようになった」と言ったそうです。
芸術家の目指すところは、実は上手とか名人というようなものではなく、「子供のような」境地なのかもしれない。

そんなことを思い出したのは、芥川龍之介が後に妻になる大塚文に送った手紙に、このような文を見つけたからです。

文ちゃんは何も出来なくつていいのですよ 今のまんまでいいのですよ そんなに何でも出来るえらいお嬢さんになつてしまつてはいけません そんな人は世間に多すぎる位います

赤ん坊のやうでお出でなさい それが何よりいいのです 僕も赤ん坊のやうにならうと思ふのですが 中々なれません もし文ちゃんのおかげでさうなれたら、二人の赤ん坊のやうに生きて行きませう

これは、前の手紙から一ヶ月後に書かれたものです。
多分、二人の間では結婚の意志が固まり、ただ文の方に「こんな自分でもよいのか?」みたいな、ちょっと自信のない発言があったのでしょう。

それで、「今のまんまでいいのですよ」と。

そして、「二人の赤ん坊のやうに生きて行きませう」。

いいなあ。最高のプロポーズですね。
赤ん坊のように無邪気に、好奇心を輝かせて、日々を楽しみながら生きていけたらと、私も思います。

しかし、やっぱりこれは理想でしかなかったのでしょうか?

もし本当に赤ん坊のようでいられたら、芥川は自殺することもなかったでしょう。実際に結婚して生活をしていく中で、赤ん坊のようでいることは難しかったのでしょうか。生きるためのさまざまな営みは、赤ん坊のように無垢であることをゆるさなかったのでしょうか。

そう思うと、たとえ晩年にでも、「子供のような絵が描けるようになった」ピカソは、とても幸せな芸術家だったかもしれません。













芥川の恋文 [本]

梅雨明けが近いのか、気温も上がって、むしむしとするお天気です。
信州から帰ったらなんとなく疲れていて、ぼんやりと芥川龍之介の全集を開いていました。

あまり集中できないまま読みやすそうなものだけ拾い読みしていたのですが、書簡集の中にこのような手紙を見つけて、まるで目が覚めるようでした。

「文ちゃん」と始まるこの手紙は、24歳の芥川龍之介が、後に妻となる塚本文に書いた「恋文」です。文はこの時16歳。

前置きはともかく、芥川龍之介のラブレター、ご紹介しますね。
それは、このように始まります。

文ちゃん。
僕は まだこの海岸で 本をよんだり原稿を書いたりして 暮らしています。

大正5年の8月の手紙です。
この時、芥川は友人とともに、千葉県の一の宮海岸に滞在しています。

ひるまは 仕事をしたり泳いだりしているので、忘れていますが 夕方や夜は 東京がこひしくなります。…しかし、東京がこひしくなると云ふのは 東京の町がこひしくなるばかりではありません。東京に居る人もこひしくなるのです。さう云ふ時に 僕は時々 文ちゃんの事を思い出します。

はっきり「あなたが恋しい」とは言わない。
東京の町と、そこに住む人が恋しくて、そんな時あなたを思い出す、と。なんだか持って回った言い方だなあと思いましたが、どうやらそれは早計でした。

芥川は、すでにこの手紙を書く随分前から、文の兄に結婚の意志を伝えていたようです。それで、手紙はこんなふうに展開していきます。

(文を嫁に)貰いたい理由は たった一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふ事です。勿論昔から好きでした。今でも好きです。その外に何も理由はありません。

まあ、なんという直球ストレートな言葉。好きだ、好きだと、何回も。
でも、こういう直球は、案外女心にひびくものなのではないかしら。

僕は世間の人々のやうに 結婚と云ふ事と いろいろな生活上の便宜と云ふ事とを一つにして考へる事の出来ない人間です。…世間では 僕の考へ方を 何と笑ってもかまひません。世間の人間は いい加減な見合いと いい加減な身もとしらべとで 造作なく結婚しています。僕には それが出来ません。その出来ない点で 世間より 僕の方が 余程高等だとうぬぼれています。

あくまでも「好きだから」結婚したいのだ、結婚の決定は全て文の意志に任せるので、後悔のないようによく考えて自分で決めて欲しいと、芥川は繰り返し強調します。

そして、その決定の参考のためかどうか、自分のことをこのように書きます。

僕のやっている商売は 今の日本で 一番金にならない商売です。その上 僕自身も 碌に金はありません。ですから 生活の程度から云へば 何時までたつても知れたものです。それから 僕は からだも あたまもあまり上等に出来上がっていません。(あたまの方は それでも まだ少しは自信があります。)うちには 父、母、叔母と、としよりが三人います。それでよければ来て下さい。

さらに、さらに、

僕には 文ちゃん自身の口から かざり気のない返事を聞きたいと思つています。繰り返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は 文ちゃんが好きです。それだけでよければ 来て下さい。

芥川は、強烈な「ロマンチック・ラブ」の信奉者なんですね。大正5年当時、それはすごく新しい考え方だったかもしれません。当時の、親の決める結婚、家と家の結婚に、強烈に反発しているのですが、それ以上に、文という16歳のひとりの少女に恋をしている、ひとりの青年芥川の姿がとても新鮮です。

神経質な、理屈っぽい青年といったイメージはちょっと覆されて、情熱的で率直で、理想家肌の青年という感じさえしてくるのです。

僕がここにいる間に 書く暇と 書く気があつたら もう一度手紙を書いて下さい。「暇と気があつたら」です。書かなくつてもかまひません。が 書いて頂ければ 尚 うれしいだらうと思ひます。

あくまでも相手の自由意志(結婚だけでなく、手紙に返事を書く自由さえ)を尊重する姿勢は、少し力が入りすぎという感じもしますが、理想に燃える青年の気負いですから、まあ好感が持てます。

それにしても、このような手紙が、こうして全集にまとめられて、平成の世の私の目に触れるだなんて、芥川は想像したでしょうか?手紙には、「人に見せても構わない」という一文がありますが、それもせいぜい文の身内の誰かを想定しただけだと思われます。

さて、こんなに芥川に想われている大塚文は、この手紙に、どんな返事を書いたのでしょう。やはりこまごまと愛の言葉を書いたのでしょうか?それとも、案外、素っ気ない手紙を返したのでしょうか?文の手紙を読んで見たい気がします。

この二人は、この後婚約し、その2年後結婚します。有名な3人の息子(比呂志、多加志、也寸志)に恵まれますが、結婚生活はわずか十数年で、芥川の自殺で終わりました。




夢見るこころ 「のはらうた」より [本]


のはらうた (1)

大好きなくどうなおこさんの詩集「のはらうた」より、
「ゆめみるいなご」をご紹介します。







ゆめみるいなご
        いなごわたる

ぼくはいつも ゆめみるいなご
たびにでたいと ゆめみるいなご
みつめろ ちへいせん
みあげろ あおいそら
ぼくは いつか きっと
ひこうきに なるぞ

ぼくはいつも ゆめみるいなご
たびにでたいと ゆめみるいなご
ふんばれ 6ぽんのあし
ひろげろ 4まいのはね
ぼくは いつか きっと
くもに とびのるぞ



「みつめろ ちへいせん みあげろ あおいそら」
「いなごわたる」君にとって、未来はいつも明るくて、青い空のかなたに輝いているにちがいありません。そして、いつも旅に出たいと夢見ている私は、仲間に出会えたようでうれしいのです。ちっぽけないなごといっしょに、私もいつか雲に飛び乗るわ。



*本はこちら のはらうた (1)

*「のはらうた」は、以前こんな記事を書きました。
くどうなおこ「のはらうた」
「のはらうた」の夏

芥川龍之介「舞踏会」 その6 [本]

「私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴィ)のやうな花火の事を。」

この言葉を聞いた瞬間、華麗な鹿鳴館の飾り付けも、華やかな人びとも、管弦楽の音も、一切が遠のいて、暗い秋の夜空だけが見えてくるような、そんな言葉です。

でも、今回この話を丹念に読み返してみますと、この言葉はちょっと変です。

美しい少女との会話。甘えるように「何を考えていらっしゃるの?」ときかれて、「当てて御覧なさい」と答える。

花火はその直後に上がったのですから、「花火の事を考えていた」というのは不自然です。

「私は生(ヴィ)のことを考えていたのです。この花火のやうな我々の生(ヴィ)のことを。」

というのが、話の流れとしては自然な感じがするのです。

でも、「私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴィ)のやうな花火の事を。」と、いいました。

芥川は意図的に、「花火」と「生(ヴィ)」を逆転させたのに違い有りません。「花火のような生(ヴィ)」とするよりも「生(ヴィ)のような花火」とした方が、心のなかに浮かび上がって来るイメージが、より鮮明な気がしますが、どうでしょうか。

さて、この小説を読みますと当然興味がわいて来るのが、仏蘭西の小説家で「お菊夫人」を書いたと文中で語られている、ピエール・ロティのことです。これは、実在の人物です。

Loti.jpgピエール・ロティ(Pierre Loti)は筆名で、ルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie-Julien Viaud )といいました。1850年1月14日生まれ。1923年6月10日に亡くなっています。(左は、海軍将校時代の写真)

1885年に来日しており、実際に鹿鳴館の舞踏会に出席しているそうです。海軍将校ですが、すでにいくつかの小説を発表しており、鹿鳴館での見聞をもとに、「江戸の舞踏会」という作品を書いたそうです。

1885年の来日は、「舞踏会」の1886年という設定とは一年ずれていますが、これは芥川がフィクションであることを強調してそうしたのかもしれません。

というのも、「江戸の舞踏会」では、ロティは日本人を「巴旦杏のようにつり上がった眼をした、大そうまるくて平べったい、小っぽけな顔」「個性的な独創がなく、ただ自動人形のように踊るだけ」と表現したそうです。

「お菊夫人」(岩波文庫では、「お菊さん」)という小説でも、ロティがことさら日本人女性を美しいと感じていたとは思えないので、この「舞踏会」という小説は、ロティに対する芥川本人のイメージが膨らんで創作されたものと言えそうです。

ともあれ、ロティの写真、なかなかハンサムですね。



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芥川龍之介「舞踏会」 その5 [本]

明治19年の秋の、鹿鳴館の舞踏会の話は、花火のエピソードを最後にして終わります。その後、仏蘭西の海軍将校はどうなったのでしょうか?明子はどうなったのでしょうか?

そんな疑問答えるように、次の「二」という段落で、さらに短いエピソードが語られます。

大正7年の秋、明子は、鎌倉の別荘へ行く途中の汽車の中で、芥川を彷彿とさせる青年小説家と出会って、鹿鳴館の思い出を詳しく語った、というのです。この青年小説家は、網棚の上に菊の花束を載せていました。明子は、その菊の花を見て、鹿鳴館の舞踏会の夜のことを思い出したのです。

明子は、この文の中では「H老婦人」と呼ばれています。親や一族に歓迎されるような結婚をして、当時としては恵まれた暮らしをしてきたにちがいありません。

ただ、

青年はこの人自身の口からかう云ふ思出を聞く事に、多大の興味を感ぜずにはいられなかつた。

とあります。この人にも、こんな華やかな思い出があったのか、こんな思い出を語ることもある人なのか、と、他人に思わせるようなところのある人になっていたのかもしれません。

ところで、私は計算してみたのですが、明治19年に17才だった明子は、大正7年では49才になっているはずです。49才は「老婦人」なのか、と思うと、似たような年齢の私としては大変にショックですが、この時代の感覚では、そうだったのでしょうか。

この後の、二人の会話です。

「奥様はその仏蘭西の海軍将校の名を御存知ではございませんか。」
するとH老婦人は思ひがけない返事をした。
「存じて居りますとも。Julien Viaud と仰有る方でございました。」
「では Loti だつたのでございますね。あの「お菊夫人」を書いたピエル・ロティだつたのでございますね。」
 青年は愉快な興奮を感じた。が、H老婦人は不思議さうに青年の顔を見ながら何度もかう呟くばかりであつた。
「いえ、ロティと仰有る方ではございませんよ。ジユリアン・ヴィオと仰有る方でございますよ。」

これで、「舞踏会」という短い小説は終わりです。

明子は、人生の半ばを過ぎても、あの時の海軍将校が高名な小説家ロティであったことを知りません。自分もその場に居合わせた鹿鳴館の舞踏会を題材に、ロティが小説を書いていることも、当然知りません。彼女にとっては、あの舞踏会は、ごく個人的な美しい記憶なのです。

でも、明子とロティ、双方を知っている芥川らしき青年小説家は、30数年前の鹿鳴館の夜から、汽車の中で明子の話を聴く瞬間までの長い時間を、まるで神のような視点から眺めたことになります。もちろん、読者の私も、この青年小説家の気分を味わうのです。

明治の鹿鳴館の華やかな描写から、一転、暗い夜空にあがる花火、そして、30数年の時の流れ。「舞踏会」は、短くて、繊細で、でもダイナミック。更に年齢を重ねた時にこれを読んだら、私はどんな感想をもつのでしょう。それが楽しみです。


小説はこれでお仕舞いですが、もう少しだけ、関連したはなしを続けます。







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芥川龍之介「舞踏会」 その4 [本]

明子と海軍将校とは云い合わせたやうに話をやめて、庭園の針葉樹を圧している夜空の方へ眼をやつた。其処には丁度赤と青との花火が、蜘蛛手(くもで)に闇を弾きながら、将(まさ)に消えようとする所であつた。

何を考えているのか当てて御覧なさいと仏蘭西の海軍将校はいうのですが、それに明子が答えないうちに、暗い夜空に花火があがります。

明子には何故かその花火が、殆(ほとんど)悲しい気を起させる程それ程美しく思はれた。

私は、花火といえば、この小説のこの場面をおもいだすくらいですので、芥川が美辞麗句を連ね、美しくこの場面を描き上げたかのように思い込んでいました。でも、今読み返してみますと、この場面はこんなに短く、思いがけないほどシンプルです。

しかし、その印象は、今まで美しく描かれて来た鹿鳴館のどの場面よりも強いのです。芥川は言葉を研ぎすまし、力を込めてこの場面を描いたのに違い有りません。

そして、二度と忘れられないこの言葉になります。

「私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴィ)のやうな花火の事を。」
暫くして仏蘭西の海軍将校は、優しく明子の顔を見下しながら、教へるやうな調子でかう云つた。

華やかで、湧き立つような舞踏会の夜に、仏蘭西の海軍将校は何と遠い所を見ていたのでしょうか。

花火のような「生」の美しさと儚さを、このような場面で、外国人の海軍将校から優しく教えられて、明子の心にこの言葉は深く刻み込まれたことでしょう。

私もそうでした。芥川龍之介を夢中で読んでいた頃の私は、丁度、この物語の明子と似たり寄ったりの年齢でした。長い間、この花火の比喩は心に残って忘れる事が無かったのです。

でも今になると、明子も、あの頃の私も、この言葉の本当の重みを果たしてどのくらいわかっていたのか疑わしくなります。「生」が花火のように美しいとは思えても、それが花火のように儚いものであることを実感するには、17才は若すぎる。

この海軍将校も、明子を見下ろして優しく教えながら、きっとそのように感じていたかもしれません。



もう少し、続けます。


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芥川龍之介「舞踏会」 その3 [本]

鹿鳴館の舞踏会で、17才の令嬢明子に賞賛の視線を送る仏蘭西人の海軍将校。ダンスの休憩に、二人はさらに会話をつづけます。

「私も巴里の舞踏会へ参つて見たうございますわ。」
「いえ、巴里の舞踏会も全くこれと同じ事です。」

どうやら、この海軍将校は、舞踏会のダンスや社交を、心の底ではあまり好きでない様子。

「巴里ばかりではありません。舞踏会は何処でも同じ事です。」と半ば独り言のようにつけ加へた。

彼はきっと、巴里の舞踏会にも、何度も何度も出席したことでしょう。きらびやかに飾られた人びとの表も裏も、知っているのかもしれません。でも、そんな彼の気持ちは、初めて舞踏会に来て興奮している明子にわかるはずもありません。

その後、二人は腕を組んでバルコニーに出ます。
聞こえて来る華やいだ舞踏会の気配とは対称的に、バルコニーからの風景は、暗く、ひっそりとした秋の夜です。海軍将校も、だんだんと無口になっていきます。

「御國の事を思つていらつしやるのでせう。」と半ば甘えるように訪ねてみた。
すると海軍将校は不相変(あいかわらず)微笑を含んだ眼で、静かに明子の方へ振り返つた。さうして「ノン」と答へる代りに、子供のやうに首を振つて見せた。
「でも何か考えていらつしやるやうでございますわ。」
「何だか當てて御覧なさい。」

微笑を含んだ眼で、「何だか当てて御覧なさい」というこの海軍将校が、とても素敵です。私が明子の代わりにその場にいたら、きっと胸をときめかせたことでしょう。

その時、庭園の夜空に花火が上がるのです。






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芥川龍之介「舞踏会」 その2 [本]

さて、初めて鹿鳴館の舞踏会に出て、仏蘭西人の海軍将校とワルツを踊る令嬢明子ですが、明子は、彼の目がずっと自分に注がれているのを意識しています。

こんな美しい令嬢も、やはり紙と竹との家の中に、人形の如く住んでいるのであらうか。さうして細い金属の箸で、青い花の描いてある手のひら程の茶碗から、米粒を挟んで食べているのであらうか。—彼の眼の中にはかう云う疑問が、何度も人懐かしい微笑と共に往来するやうであつた。

このように描かれる、フランス人から見た日本人の生活は、大変に美しく感じられます。確かに当時の日本家屋の内装は、紙と竹でできていると言えそうですし、毎日ご飯を食べる有田焼や美濃焼のお茶碗は、白地に青で、花の模様も描いてあります。そして、無意識にやっていますが、「お箸で米粒を挟んで食べている」のは、その通り。

明子は、こんなふうに外国人の注目を浴びる事は不愉快でもなんでもなく、むしろうれしく誇らしいのですが、また、

或刹那には女らしい疑ひも閃かずにはいられなかつた。

と、あります。

「女らしい疑い」とは、何でしょう?
それは、次に語られる二人の会話から推測するしかありません。

「西洋の女の方はほんとうに御美しうございますこと。」
海軍将校はこの言葉を聞くと、思ひの外真面目に首を振つた。
「日本の女の方も美しいです。殊にあなたなぞは—」
「そんな事はございませんわ。」

明子は若い初々しい令嬢ですが、なかなかどうして、立派な一人前の社交界の女ですね。相手が本当に自分のことを美しいと思っているのか確かめたくて、わざと通りすぎた西洋人の女性を誉めたのでしょう。

そして、海軍将校は、きっと心の底から、明子を美しいと思っていたのでしょう。次のセリフは、単なる社交辞令とは違うようです。

「いえ、御世辞ではありません。その儘(まま)すぐに巴里の舞踏会へも出られます。さうしたら皆が驚くでせう。ワツトオの畫(え)の中の御姫様のやうですから。」

明子は、ワットーの絵を知らなかったので、この海軍将校の最高の賛辞は、あまりピンとこなかったようです。

こういうことは、よくあるかもしれませんね。自分が最高に相手を誉めているつもりでも、相手には何のことかわからなかったり、その反対に、誉められていることがわからなかったり。

今回も、このくらいにしておきます。

ワツトオ.jpg検索で見つけたワットーの絵の中の御姫様を御覧下さい。


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芥川龍之介「舞踏会」 その1 [本]

あちこちで花火大会が催されて、きれいな花火の写真をブログで拝見しています。
花火は大好きで、子どもの頃浴衣を着て出かけた事や、息子やそのお友達と、手持ち花火を楽しんだ事など、さまざまな楽しい思い出がよみがえります。

しかし、何度となく自分のこの目で夜空に上がる花火を見て来たのに、「花火」という言葉で真っ先に浮かび上がってくるのは、芥川龍之介の「舞踏会」という小説。旧仮名遣いの、文字ばかりの、短い作品のことなのです。

確か、この「舞踏会」は、中学か高校かの国語の教科書で読んだのが最初だったと思いますが、その後も思い出しては読みたくなる、私の大好きな小説になりました。私の岩波書店版の芥川龍之介全集では第三卷に収録されています。夏休みで、時間がたっぷりととれますので、ゆっくりと読み返してみることにします。

物語は、明治19年11月3日の夜、17才の明子という令嬢が、はじめて鹿鳴館の舞踏会にやって来る、というところから始まります。季節がら、たくさんの菊の花で飾られた鹿鳴館の様子や、若く、初めての舞踏会に興奮している明子の姿が、美しく語られていきます。

その夜の明子の姿は、こうでした。

初々しい薔薇色の舞踏服、品好く頸へかけた水色のリボン、それから濃い髪に匂っているたつた一輪の薔薇の花—実際その夜の明子の姿は、この長い辮髪を垂れた支那の大官の眼を驚かすべく、開化の日本の少女の美を遺憾なく具えていたのであった。

明子は初めての舞踏会に緊張してはいるのですが、周囲の人びとが自分の美しさに注目しているのを十分意識しています。それを、芥川は、「(明子は)羞恥と得意を交わる交わる味(あじは)った」と書いています。このような気持ちは、若い女なら一度は味わうのじゃないかと思いますが、男の芥川は、なぜこんなことまでわかるのでしょうね。ちょっと悔しくなります。

やがて、美しい明子にダンスの申し込みが来ます。同年代の娘たちの中いた明子にしずしずと歩み寄って、このような声が。

「一しよに踊つてはくださいませんか。」

それは、頬の日に焼けた、目鼻立ちの鮮やかな、濃い口ひげのある、背の高い「仏蘭西の海軍将校」でした。明子は、その海軍将校と、「美しく青きダニウヴのヴアルス」(美しく青きドナウのワルツ)を踊るのです。

明子が、この仏蘭西人将校に腕を預けて踊っている最中に彼女の目に映ったものを、芥川はこんなふうに描写しています。

皇室の御紋章を染め抜いた紫縮緬(むらさきちりめん)の幔幕(まんまく)や、爪を張った蒼龍が身をうねらせている支那の國旗の下には、花瓶花瓶の菊の花が、或は軽快な銀色を、或は陰鬱な金色を、人波の間にちらつかせていた。しかもその人波は、三鞭酒(シャンパニエ)のやうに湧き立って来る、花々しい独逸管弦楽(ドイツくわんげんがく)の旋律の風に煽られて、しばらく目まぐるしい動揺を止めなかった。

このきらびやかな時間は、明子にとっては得意の絶頂だったかもしれませんね。



有名な作品で、私のブログを読んで下さる皆様は、きっと最後までよく覚えておられることでしょうから、退屈させてしまうかもしれませんが、長くなりましたので、また次回に続けることにします。




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芥川龍之介「私の生活」 [本]

この前実家に行ったら、父の本棚に芥川龍之介全集全12巻がずらりと並んでいるのを見つけて、さっそくもらって来ました。もらって来たも何も、もともと、私が学生時代にお小遣いをはたいて買ったものだったのです。ちょうど芥川没後50周年の記念に、岩波書店から出版された全集でした。すべての小説と随筆、小さなコラムや書簡まで載っていて、私はあのころ、この本の虫のようでした。

さて、この全集を、暑い日盛りのつれづれに読んでいますと、こんな文章がありました。「私の生活」という短い文です。

朝は九時に起きて、パンと牛乳と紅茶とで朝飯を済ませる。「日々」「朝日」の二新聞を取り上げて、まず一番先に三面記事を見る。それから、調子が良ければ小説を書きに、この書斎へ入る。調子が悪ければ、小説を書かないで本を読む。

こんな調子で、この文は始まっています。
起床が9時というのは、ずいぶん朝寝坊。朝パン食というのは、ハイカラな感じがします。この文は、大正8年頃のものなのです。

そして、私をびっくりさせた、この一節。

午(ひる)は普通の飯を食ふ。三杯位。特に好きな食物と云って別にないが、煙草は、到底一色ではすまされぬ。

朝9時に朝食を食べて、お昼には「普通に、ご飯3杯」食べるというのは、これはどうなんだろう?芥川は写真で見る限り、やせ形の、すらりとした体型ですが、ご飯は3杯食べるんだ。普通に。

先日DVDで見たドラマ「JIN」では、幕末にタイムスリップした現代人が、お茶碗に山盛りに盛られた白いご飯にたじたじとなる場面がありました。このごろは、うちの息子でさえ、ご飯はおかわりしなくなりましたし、現代人は、ご飯は軽く一杯であとはおかずでお腹を満たす、というのが普通になっているように思います。でも、大正時代は、ご飯をたくさん食べるのが普通だったようですね。

芥川は、煙草は吸いますが、お酒は好きでなかったようです。さらに、食べ物にも、執着がなかったような書きぶりです。スポーツもやらないし、音楽や芝居や映画は行くが、特に行かなくてもかまわない、というような「淡々とした態度」。

好きな動物?猫を飼っている。御覧に入れませうか。西洋種の虎のような毛色をした、大きい奴で、頸(くび)には銀色の鈴をつけている。

この語り口が好きです。落着いて、どこか超然としていて、さらに書いているのが、あの私好みのお顔の芥川ですから。なんとなく、クールな感じではありませんか。

そして、最後のこの一節。

僕も男と生まれた甲斐には、どんな女でも好きである。僕の小説の好きな人なら特別に。

「僕の小説の好きな人」とやらが、どれだけたくさんいるのかは知りませんが、とにかくこんな「好き者」風のことをわざと言ってみせる芥川が好き。

私は、この一節を読むために、この芥川龍之介全集を買ったのかもしれない。アイドルに「キャー」といって熱を上げる女の子の気持ちが、少しわかる気がしました。



タグ:芥川龍之介
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