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哲学者の最後 デカルト [生きる]

デカルトの最後は、なんだか心に残る。

デカルトは、スウェーデンのクリスティーナ女王から何度も招かれている。
無論、女王がデカルトの哲学の講義を聴くためである。

1649年4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦で迎えにきた。
この時、デカルト53歳。クリスティーナ女王は弱冠23歳である。

デカルトは、多分うれしく、名誉に感じたことだろう。23歳で向学心に燃えている女王に講義をするわけである。クリスティーナ女王は、のちに「バロックの女王」と言われているから、才色兼備の聡明な女性だったのだろう

女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着した。ストックホルムの冬が大変に寒いだろうことは、容易に想像できる。そこは女王もわきまえて、春に迎えを出したのに、秋に行ってしまったのだ。

1650年1月から、デカルトは女王のために朝5時からの講義を行った。

なんでまた、朝の5時から講義をしたものか。日本だって、冬の朝5時は真っ暗だ。真冬のストックホルムで、朝5時から講義だなんて。しかも、デカルトはフランスでは朝寝の習慣があったから、大変に辛かったのだという。

これは、女王の向学心ゆえの勇み足なのか。それとも、女王の生活では、そこしか勉強の時間がなかったのだろうか。やらせる女王も女王だが、それを拒みもせずに講義をするデカルトもデカルトだ。

そして、2月。デカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去。

あっけない。

なんとも、もったいない話。
女王は、約1ヶ月しか講義を受けていないし、デカルトはまだ53歳だし。

でも、何か、劇的でロマンチックである。

「女王が哲学者を招く」とか、その迎えが「軍艦」だとか、その53歳の壮年の学者が「風邪をこじらせて、あっけなく亡くなる」とか。

まるで、中世の騎士物語のようだ。
美しい北国の女王のために、高名な哲学者が命がけで講義をして、本当に命を散らしてしまった。

このようなドラマは、多分現代ではお目にかかれないだろう。朝の5時から講義を聞こうという女王がいるとは思えないし、風邪をこじらせた学者は、宮廷の医師団が、点滴と抗生物質で治してしまうだろうから。

***

ところで、カントとかデカルトとか、哲学者のことを語っているからといって、私が彼らの哲学を理解しているとは思わないでほしい。

理解したい。

でも、難しい。

だから、「外堀を埋める」感じで、哲学の理論からはずいぶん離れた、哲学者の生き様などに注目しているのだ。

外堀を埋めるのは楽しいが、埋めたからといって本丸にたどり着けるとは限らない。何やら、埋まった外堀の周辺を、ぐるぐると歩いているだけ、という感じがしている。




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哲学者の最後 ヴォルテール [生きる]

ヴォルテールは、一貫してキリスト教を批判した。

1700年代のことだ。

カソリックのイエズス会の学校で学んだヴォルテールが、どうして「無神論者」になったのか、私は不勉強でわからない。

しかし、その時代に「無神論者」というのは、これは、すごく前衛的なことだったのではないだろうか。

というか、気の小さい人間にはとてもできないことだったろう。何故かというと、以下のような状況が予想されるからだ。

ヴォルテールは、生涯一貫して時の政府や教会を、とにかく声高に批判しまくった。そして、当時としたらかなり長生きして、83歳でこの世を去る。

この世を去ったら、行き場所はとりあえず墓である。しかし、当然といえば当然、パリの教会は彼の埋葬を拒否したのである。ひどく批判されたのだから、恨み骨髄だったのだろう。

これはこたえる。遺体が埋葬できないのでは、本人より遺族が困ってしまう。

仕方なく、ヴォルテールはパリから遠く離れたフランスとスイスの国境近くに埋葬された。1778年のことだ。

何事もなければ、ヴォルテールは今もそのまま国境に近い墓地で静かに眠っていたことだろう。

しかし、世の中は動いていた。

ヴォルテールがこの世を去って11年後、フランス大革命がおこる。

新しくできた革命政府にとって、反政府、反教会のヴォルテールの思想は精神的支柱となっていたのだ。

革命政府はヴォルテールの遺体をパリに移し、パンテオンに丁重に埋葬することにした。パンテオンはフランスの偉人を祀る「霊廟」で、フランスを象徴するような堂々たる大建築である。しかも、宗教色がうすい。

というわけで、現在ヴォルテールは、ヴィクトル・ユゴーやキュリー夫人らと枕を並べて、パリのパンテオンで眠っている。

革命は、こんなどんでん返しも起こすのだ。





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哲学者の最後 ソクラテス [生きる]

ソクラテスの最後が「刑死」であることは有名だ。

当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫いて、あえて刑死を受け入れた、ということだ。

だからこそ後世に伝わる「偉人」なのかもしれないけれど、やはり、生きる可能性があるなら生きて良い仕事をして欲しかったと思う。

それはともかく、その刑は「ドクニンジン」を飲むことで執行されたという。毒殺。

楽に死ねるのだろうか?(ドクニンジンは、呼吸器系を麻痺させるそうだ。)

紀元前399年に、すでにそのような毒草が使われていたと考えると、やはり古代ギリシャ人は馬鹿にできない。

少なくとも、毒蛇に咬ませて自殺したというクレオパトラよりは、私の好みに合う。ヘビは勘弁してもらいたい。

ところで、ソクラテスはご本人とともに、妻も有名だ。大変な悪妻だったという。

ソクラテスは、こんなことを言っている。

「セミは幸せだ。なぜなら物を言わない妻がいるから」

笑える。よっぽど口うるさい妻だったのだろうか。

さらに、
「ぜひ結婚しなさい。よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」

さあ、どうだろう。哲学者と結婚したから悪妻になった、とも考えられるけれど。

しかし、ソクラテスはこうも言っている。

「そんなにひどい妻なら別れたらいいじゃないか」と言った人に対し
「この人とうまくやっていけるようなら、他の誰とでもうまくやっていけるだろうからね」

他の誰とでもうまくやっていく術をソクラテスは得たのかもしれないけれど、結局、他の誰ともうまくやらず、悪妻のクサンティッペと夫婦であり続けたのだ。さんざん悪口や愚痴を言いながら、実は愛し合っている夫婦だったのかもしれない。ちょっといい話。

最後の時は、
クサンティッペが「無実の罪で死ぬなんて!」と嘆いたら、
ソクラテスは「じゃあ僕が有罪で死んだほうがよかったのかい?」といったそうだ。

最後の時だというのに、この屁理屈。

この会話の後、二人は多分最後の喧嘩をしたのだろう。




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哲学者の最後 カント [生きる]

カントは、規則正しい生活者だった。
毎日同じ時間に散歩をするので、村の人は「カント先生が通る」と時計代わりにしたそうだ。

そのような生活をする人は、多分長生きだろうと思ったら、カントの享年は79歳。

1804年という時代を考えれば、やはり大変に長生きした人だ。

しかし、ちょっと悲しいものがある。

晩年は老人性の認知症になっていたというのだ。

「七十五歳から老いを感じたカントが手元にメモ用紙を用意していて、人と会うと、名前と用件を書いてもらい、一人になると、じっとメモを見つめていたということが書いてある。しかし、やがてそれもできなくなる。人の識別がつかなくなっていったからである、という。」(池内紀『世の中にひとこと』NTT出版)

「博士の愛した数式」という小説を、ちょっと思い出す。事故で記憶力を失った「博士」は、懸命に身辺にメモを貼付けていた。彼は哲学ではなく数学の博士だったけれど。

カントの肖像画を見ると、前頭葉がこんもりとした、いかにも理論家らしい頭の形をしている。
しかし、どんなに優秀な頭脳でも、そして、規則正しい健康的な生活をしていても、認知症になる時は、なる。

私などは、「頭の体操」と称してクイズやパズルに没頭したりするが、このエピソードを知ったらそれもどこか虚しいのである。

ところで、カントは生涯独身だった。

厳めしい顔のヘーゲルは妻帯者だが、ヘーゲルに比べたら親しみを持てそうな顔のカントは生涯独身。

女嫌いのエピソードも、男好きのエピソードも、ともに残っていないが、恋愛にあまり興味がなかったのは確かだろう。

カントでネットサーフィンしていたら、何とカサノヴァのページにたどり着いた。
放蕩者ゆえに現代にもその名の伝わるイタリア人のカサノヴァである。

カントが1724年生まれ。カサノヴァが1725年生まれ。1720年代生まれというだけのくくりなのだが、この二人が同時代の人だというのが面白い。

カントが、その生涯のほとんどを生まれた町ケーニヒスベルクで過ごし、妻帯せず、規則正しい生活を営みながら学問を究めていた、そのほとんど同時期に、カサノヴァはヨーロッパ中を旅し、行った先々で問題を起こしながら、とんでもない数の女たちと関係を結ぶという生活を送っていたのだ。

二人に面識があったとは思えないが、この対称的な人生を送った二人がもしどこかで会ったら、どうだろう。

意気投合はしないまでも、案外お互いを認め合ったりするのだろうか。

「究める」ということにおいては、共通点があるのだから。

一方は哲学を、一方は放蕩を。









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哲学者の最後 ヘーゲル [生きる]

長い事お休みしました。
今後もどれだけ続けられるかわからないのですが、ポツポツと・・・

***

だから、何?

という話ではあるのだけど、

ヘーゲルの死因を今さら知って、びっくりしている。

カントとかヘーゲルとか、偉大な哲学者というものは、多分、神経質だろう。

神経質な人は、口に入れるものに気をつけるはずだから、コレラにはかかりにくい

・・・というのが、私の思い込みだったが、見事にはずれた。

ヘーゲルは1831年、61歳でコレラで死んだのだ。

命日は11月14日。

11月のベルリンでコレラが流行していた、というのも、また意外。

暑い地域でなくても、暑い季節でなくても、コレラは流行する。

そして、貧しきものも富めるものも、愚かな者も賢いものも、一様に感染の危険にさらされるのだ。

ヘーゲルを出発点にネットサーフィンしていて、コレラのページに漂着したら、そこには「パンデミック」の文字が散乱していた。

歴史上7回の世界的流行 (コレラ・パンデミック) が発生し、1826年から1837年までの世界的大流行の時にヘーゲルが亡くなっている。

ふと、エボラ・・・で、不吉なことを考えてしまった。
パンデミックが起こる前に、断固として根絶させなくてはならない。

全く関係ないが、ネットで「ヘーゲル」の画像を検索すると、ドイツの哲学者ヘーゲルとともに、アメリカの国防相チャック・ヘーゲルの画像が出てくる。

あの、ヘーゲルの厳めしい顔と、結構人が良さそうに見えるヘーゲル国防相の顔が並ぶのだが、この二人、どことなく似ている(ような気がする)。

もちろん、同じドイツ系というだけで血のつながりはなさそうだが、何だか不思議な感じがする。


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